参議院議員 山谷えり子 君 提出 皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問に対する答弁書

第180回国会(常会)

答弁書

答弁書第75号

内閣参質180第75号
  平成24年4月10日
内閣総理大臣 野田 佳彦   

       参議院議長 平田 健二 殿

参議院議員山谷えり子君提出皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

   参議院議員山谷えり子君提出皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問に対する答弁書

一から五までについて

 天皇の行為については、憲法に定める国事行為、象徴としての地位に基づいて公的な立場で行われる公的行為及びその他の行為に分類され、皇族の行為については、皇族の身分をもって公的な立場で行われる公的行為及びその他の行為に分類されると考えられる。御指摘の「皇室のご活動」という用語は、これらの全てを表すものとして、御指摘の「天皇皇后両陛下のご公務」という用語は、これらのうち、国事行為及び公的行為に限らず、広く公的色彩を帯びた行為を表すものとして、それぞれ用いたものである。

六及び七について

 御指摘の「天皇陛下のご公務」のうち、国事行為については、摂政を置くべき場合を除き、国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第83号)第2条の規定に基づいて委任を受けた皇族が臨時に代行することができる。国事行為以外の「ご公務」については、法令上明文の根拠はなく、それぞれの「ご公務」の趣旨、性格等に照らして皇族がこれを行うことは可能であると考えられる。

皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問主意書

第180回国会(常会)

質問主意書

質問第75号

皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第74条によって提出する。

  平成24年4月2日

山谷 えり子   

       参議院議長 平田 健二 殿

   皇室制度に関する有識者ヒアリングに関する質問主意書

 政府が本年2月よりスタートした「皇室制度に関する有識者ヒアリング」では、緊急性の高い皇室のご活動の維持と婚姻後の女性皇族の問題に絞り、皇位継承問題とは切り離して検討を行っていくとしているが、世界に誇る我が国の皇室制度であるだけに、検討には時間をかけ、慎重に慎重を重ねて議論していかなければならない。よって、以下質問する。

一 昨年12月1日の野田首相の記者会見及び本年1月6日の藤村官房長官の記者会見では、「皇室活動の安定性」、「皇室のご活動の安定的な維持」が緊急性の高い課題であるとしている。では、この「皇室のご活動」とは、具体的にどのようなものを指すのか。その定義を示されたい。

二 前記一における「皇室のご活動」は、全て公的なご活動と理解してよいか。「皇室のご活動」に私的なご活動も含まれる場合、「皇室のご活動」と「皇族の私的活動」とはどこが違うのか。また、両者を区別する基準を示されたい。

三 本年1月6日の記者会見において、藤村官房長官は緊急性の高い課題として「皇室のご活動」のほかに、「天皇皇后両陛下のご公務」の負担軽減を挙げている。では、「天皇皇后両陛下のご公務」とは何か、その定義を示されたい。

四 前記三における「天皇皇后両陛下のご公務」は「皇室のご活動」に含まれるか。ご公務に含まれないご活動がある場合、「皇室のご活動」には具体的にどのような活動が想定されるか。

五 前記三における「天皇皇后両陛下のご公務」のうち「天皇陛下のご公務」は、憲法に定められた天皇の「国事行為」を除き、「天皇の公的行為」と重なるのか。両者の関係について示されたい。

六 本年2月二19日に行われた「有識者ヒアリング」では、園部内閣官房参与が「天皇陛下の御公務の継続をお助け頂くという体制といいますか、(中略)御公務を分担して頂きたいという気持ちが湧き上がってくる」と述べている。これについて、「天皇陛下のご公務」は、天皇以外の皇族にも「分担」が可能なのか。可能とした場合、それはどの皇族にも可能か。あるいは、「ご公務」の内容により、「分担」できる皇族は限られるのか。

七 前記五における「天皇の公的行為」は天皇の「象徴としての地位」に由来するものと理解する。では、その地位にない皇族に、その行為の「分担」あるいは「代理」は可能か。また、可能とした場合、その「分担」あるいは「代理」は、どの皇族にも可能か。

  右質問する。

衆議院議員吉井英勝 君 提出 陵墓の治定変更と公開に関する質問に対する答弁書

平成24年2月3日受領
答弁第1号

  内閣衆質180第1号
  平成24年2月3日
内閣総理大臣 野田佳彦

       衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定変更と公開に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定変更と公開に関する質問に対する答弁書

(一)について
 古代の皇室の歴史等に関する「古事記」、「日本書紀」等の記述は多岐にわたり、その解釈についても諸説あると承知しており、これらの記述が史実か否かを一概にお答えすることは困難であるため、御指摘の答弁書(平成21年7月6日内閣衆質一七一第611号)(三)及び(五)についてのとおりお答えしたものである。

(二)について
 陵墓及び陵墓参考地(以下「陵墓等」という。)は、国有財産法(昭和23年法律第73号)第3条第二項第3号に規定する皇室用財産に該当するものであるため、関係法令の定めるところにより、宮内庁が管理しているものである。

(三)について
 お尋ねの「考古学上の古墳」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の陵墓等については、文化財保護法(昭和25年法律第二百十四号)第95条が規定する措置の一環として地方公共団体が作成した遺跡台帳に、考古学上の名称が記載されていなかったため、御指摘の答弁書(平成22年8月20日内閣衆質一七五第38号)(五)についてにおいては、「不詳」とお答えしたものである。

(四)について
 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、御指摘の四十五陵は、「延喜式」に加え、「日本書紀」、「古事記」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき治定されたものである。

(五)、(七)及び(八)について
 陵墓等の治定替え又は治定解除については、確実な資料が必要であると考えており、御指摘の答弁書(平成21年7月6日内閣衆質一七一第611号)(十三)についてにおいては、この事理を述べているものである。

(六)について
 お尋ねについては、先の答弁書(平成22年8月20日内閣衆質一七五第38号)(四)についてで述べたとおりである。

(九)及び(十)について
 陵墓参考地の治定の根拠とされた古記録や口碑伝承の内容が史実であるかを一概にお答えすることは困難であるが、陵墓参考地の治定に当たっては、古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、総合的に判断されたものと考えている。

(十一)について
 宮内庁においては、学術論文等を収集するとともに、陵墓等の管理を通して得られる知見を踏まえ、現在も陵墓参考地の考証を行っているところである。

(十二)について
 お尋ねの「今城塚古墳」については、墳丘の長さ約二百メートルの大型の前方後円墳であり、周濠等の跡も良好に認められ、学術上重要と認められたことから、昭和33年(千九百58年)2月18日に史跡に指定した。史跡指定範囲は、墳丘、内濠、内堤、外濠及び外堤の一部である。

(十三)について
 継体天皇三嶋藍野陵は、江戸時代の享保年間(千七百16年から千七百36年までの期間をいう。)までに現在地に治定されたものであるが、当時の考証記録は残っていない。明治に至り、宮内省が、古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、再考証を行い、現在地が適当としている。

(十四)について
 お尋ねの「太田茶臼山古墳」から出土した埴輪が製作された時期及び同古墳の築造時期については、茨木市教育委員会から五世紀中頃から後半であると考えられると聞いており、「今城塚古墳」から出土した埴輪が製作された時期及び同古墳の築造時期については、高槻市教育委員会から六世紀前半であると考えられると聞いている。

(十五)について
 御指摘の「窯跡群」については、「今城塚古墳」等に置かれた埴輪が製作されていたと考えられる大規模な工房の跡であり、当時の埴輪製作の実態が具体的に捉えられる点で学術上重要と認められたことから、平成3年(千九百91年)7月20日に史跡に指定した。

(十六)から(十八)までについて
 継体天皇三嶋藍野陵、斉明天皇越智崗上陵及び大田皇女越智崗上墓については、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、治定されたものである。発掘調査等の成果に基づく諸説については承知しているが、宮内庁としては、治定を覆すに足る確実な資料を得るには至っていないと考えている。なお、今後とも様々な調査に基づく学術的成果には留意していく所存である。

(十九)について
 斉明天皇越智崗上陵及び大田皇女越智崗上墓に関する「日本書紀」等の古記録の記述の解釈については、諸説あり、お尋ねのような「記述」の「内容を詳らかに」することは困難である。

(二十)について
 お尋ねの「被葬者」は、文武天皇である。

(二十一)について
 宮内庁としては、御指摘の事柄は広く知られているものであり、皇室の方々のお耳にも達しているものと拝察している。

(二十二)について
 東百舌鳥陵墓参考地の工事は、墳丘裾部が濠水により浸食を受けていることから、その進行を防止するため、墳丘裾部の保護を行うものである。また、事前調査は、工事予定部分である墳丘裾部等に、複数のトレンチを設置して行う予定である。

(二十三)及び(二十七)について
 宮内庁においては、堺市教育委員会が、東百舌鳥陵墓参考地周辺の埋蔵文化財調査を検討中であることから、百舌鳥陵墓参考地と同様に同時調査を行うことについて、同市と協議を開始したところである。

(二十四)について
 御指摘のとおりである。

(二十五)について
 宮内庁は、平成20年(二千八年)に百舌鳥陵墓参考地において保全整備工事に伴う事前調査を行い、堺市教育委員会は、宮内庁の調査と同時に同陵墓参考地周辺の埋蔵文化財調査を行った。これらの調査においては、調査前に宮内庁と堺市との間で締結した協定に基づいて情報の共有や意見の交換を行ったが、調査の実施主体及び目的が異なるものであったため、同時調査と呼称した。

(二十六)について
 平成23年(二千11年)3月三11日に堺市教育委員会が発行した「百舌鳥古墳群の調査五御廟山古墳(GBY-六)発掘調査報告書」には、宮内庁及び堺市教育委員会の調査成果の全体が、双方の調査区の配置等が記載された図面も含め、総合的に掲載されている。

(二十八)から(三十一)までについて
 宮内庁としては、陵墓等については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているので、静安と尊厳の保持が最も重要と考えている。このため、陵墓等の管理に必要な場合を除き、陵墓等への立入りについては、厳に慎むべきであると考えているが、学術研究上の観点からの必要不可欠な立入りの要請に対しては、陵墓等の本義に支障がない限りにおいて、これを許可しているものである。

(三十二)について
 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかでないため、一概にお答えすることは困難であるが、例えば、古記録において「山陵」が「撥」かれたとの記述が見られる陵墓等について、その陵墓等の名称、考古学上の名称、所在地、「撥」かれた年の例は、次のとおりである。
 磯長山田陵 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町 康平三年(千60年)
 狹城盾列池後陵 佐紀石塚山古墳 奈良県奈良市 康平六年(千63年)

(三十三)について
 御指摘の「外濠等」については、大阪府教育委員会からは、周知の埋蔵文化財包蔵地(文化財保護法第93条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地をいう。以下同じ。)としていると聞いており、文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置が採られているものと考えている。
 また、御指摘の「外濠等」の範囲については、発掘調査が実施されていない部分もあり、明確にはなっていないと承知している。同法に基づく史跡への指定については、大阪府教育委員会や堺市教育委員会の発掘調査の結果を踏まえて、土地所有者等の財産権に配慮しつつ、検討すべきものと考える。

(三十四)について
 大阪府教育委員会が土師ニサンザイ古墳として周知の埋蔵文化財包蔵地としている範囲において、文化財保護法に規定する届出をした上で行われた調査件数は、宮内庁管理部分は一件、宮内庁管理部分以外は、調査を実施した大阪府教育委員会及び堺市教育委員会から七十四件と聞いており、合計七十五件である。また、お尋ねの「検出件数」は四十五件で、そのうち現状保存されたものは二十八件であり、現状保存されていないものについては、いずれも遺跡の記録を作成していると聞いている。また、同法の規定する届出をせずに行われた調査及び同法施行前に行われた調査については、網羅的に把握していないと聞いている。

(三十五)について
 お尋ねの「明らかに破壊された」の意味するところが必ずしも明らかではないが、堺市教育委員会によれば、百舌鳥古墳群において墳丘が消滅している古墳については、文化財保護法の施行前に消滅したものも含め、六十一基を把握していると聞いている。このうち、同法施行後に墳丘が消滅したと考えられるものは少なくとも九基を把握していると聞いており、この九基については、開発行為に伴う事前の調査によって遺跡の記録が保存されており、周知の埋蔵文化財包蔵地として地方公共団体により適切な措置が採られているものと考えている。

(三十六)について
 お尋ねの史跡の名称については、先の答弁書(平成21年7月6日内閣衆質一七一第611号)(二十七)についてでお答えしたとおりであり、現在の名称が適切であると考えている。

(三十七)について
 お尋ねの「後円部の等高線とほぼ直角に交わる破線」の箇所は、現在、周囲と判別できない状態であり、「墳丘くびれ部を斜めに横切る破線」の箇所は、現在、切り通し状となっている。「等高線とほぼ直角に交わる破線」の箇所を通路として利用することはない。

(三十八)について
 お尋ねの「研究者個人による申請」については、分析体制等の観点から想定していない。また、これまでに「分析の申請」はない。

(三十九)について
 お尋ねの「科学分析」については、宮内庁として、現時点では、必要ないと考えているが、先の答弁書(平成21年7月17日内閣衆質一七一第657号)(二十八)についてでお答えしたとおり、分析実績のある機関から申請があり、学術上の観点から必要不可欠であると認められれば、実施方法などを考慮し、検討することもあり得ると考えている。

(四十)について
 宮内庁においては、学術研究上の要請に応えるため、宮内庁内での展示、博物館等への貸出し等に努めており、実績のある博物館等から申請があり、学術上等の観点から必要であると認められれば、検討したいと考えている。

(四十一)について
 お尋ねについては、陵墓等の治定以降、管理用敷地の編入等による異動が多数あり、調査に膨大な作業を要するため、その全てをお答えすることは困難であるが、最近の事例としては、平成22年(二千十年)4月二17日付けで菟道稚郎子尊宇治墓の参道入口部分の一部を用途廃止したところである。

(四十二)について
 当時の政府が制札を設置した目的については、直接の記録がないため不明であるが、陵墓の静安と尊厳を守るため設置されたものと考えている。また、太政官達以前の陵墓の管理状況の詳細については明確ではない。

(四十三)について
 現在、宮内庁が設置している外構柵は、陵墓等の静安と尊厳を保持しつつ、良好な状態で管理することを目的としたものである。また、お尋ねの「外構柵」が最初に設置された正確な時期及び目的、最初の古代高塚式の陵墓等がどれであるかについては不明である。

(四十四)について
 陵墓等に鳥居が設けられるようになった時期は不明であるが、宮内庁としては、平安時代の公卿の日記に天智天皇山科陵、桓武天皇柏原陵等に鳥居があったことが記されていることから、それらの鳥居が平安時代には建てられていたと考えており、それ以降の古記録等においても鳥居に関する記述が見られることから、皇室においては、伝統的に陵墓等に鳥居を設置しているものと承知している。

(四十五)について
 宮内庁としては、「日本書紀」の記述に基づけば、平成28年(二千16年)は、神武天皇が崩御してから二千六百年に当たることになると承知しているが、お尋ねについては、諸説あるものと承知している。

(四十六)について
 「日本書紀」は神武天皇の即位について、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳為天皇元年」と記述しており、この「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前六百60年2月11日に当たると解されている。

衆議院議員中島政希 君 提出 皇室典範改正に関する質問に対する答弁書

平成24年2月17日受領
答弁第55号

  内閣衆質180第55号
  平成24年2月17日
内閣総理大臣 野田佳彦

       衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員中島政希君提出皇室典範改正に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

衆議院議員中島政希君提出皇室典範改正に関する質問に対する答弁書

一及び二について
 政府としては、皇室の御活動をどのように安定的に維持し、天皇皇后両陛下の御公務の負担をどのように軽減していくかは、大変緊急性の高い課題であると認識している。その上で、皇室典範(昭和22年法律第3号)第12条において「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」と規定されている皇族女子の身分等の問題に絞り、皇位の継承の問題とは切り離して検討を行うこととしたものである。
 なお、安定的な皇位の継承を維持することは、国家の基本に関わる事項であり、政府としては、国民各層の様々な議論も十分に踏まえながら、検討していく必要があると考えている。

三について
 政府としては、皇室の方々が国政に関与したと受け取られないよう十分に留意しつつ、今後の皇室の在り方など皇室の将来に関わる問題について、皇室の方々のお気持ちを酌み取る努力を行ってまいりたい。

陵墓の治定変更と公開に関する質問主意書

平成24年1月24日提出
質問第1号

陵墓の治定変更と公開に関する質問主意書

提出者  吉井英勝

陵墓の治定変更と公開に関する質問主意書

 古墳の中には、現在の学術的到達点に立って被葬者が誰であるか明確な証拠がないにもかかわらず、古代皇室の埋葬地やその可能性があるといわれる地、すなわち陵墓あるいは陵墓参考地(以下、この質問主意書において陵墓等と略)という名の皇室用財産になっているものが数多くある。また、それが我が国にとどまらず、広く古代アジアの歴史や文化、経済や交易、外交や交流等を考える上で重要な資料になっていることを、これまでに提出してきた質問主意書の中で指摘してきた。
 その上で、陵墓等として扱われていることが古墳の学術目的の調査に対して非常に大きな壁となり、史実等の解明の支障となっている問題点や、ユネスコ世界遺産への登録を目指そうという文化財でありながら、国民に対して公開する要求にさえ背を向けている問題を質してきた。これに対し答弁書では、陵墓等は「皇室において祭祀が継続して行われ、静安と尊厳の保持が最も重要」で、学術目的であっても墳丘に上って表面から観察することすら「厳に慎むべきこと」であり、そのようなことは認められないという硬直的な見解を重ねてきた。
 さらに、古事記、日本書紀、延喜式等の古記録の記述、口碑伝承を拠り所に十七世紀末から二十世紀前半に行われた陵墓等の治定方法の問題点を指摘し、考古学に限らず現代のあらゆる学術的成果を採り入れて陵墓等の治定を見直すことを求めてきた。これに対し、我が国では古墳の被葬者名を記したものは何ら出土しない状況であるのに、「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」(内閣衆質一七一第611号他)という見解を示し続けている。
 よって、次のとおり質問する。なお、元号は使わず西暦で答えられたい。

(一) 宮内庁の説明によれば、古事記、日本書紀の記述が史実と認識しているかどうかについて、それが史実か否かは、歴史学者の間でも諸説あるとのことであった。2009年6月二19日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第611号)でも、「宮内庁としては、古代の皇室の歴史については、歴史学者の間でも諸説あるものと承知」という歴史学者を主体にした見解が示されている。宮内庁書陵部は古代史の研究職職員を配置しているにもかかわらず、陵墓等の治定の根拠に使っている古事記や日本書紀の記述が史実か否かについて、「歴史学者の間でも諸説あるもの」と、宮内庁として明確に答えることができないのはなぜか。また、陵墓等に葬られているという古代の皇室の起源についても、「歴史学者の間でも諸説あるもの」としか答えることができないのはなぜか。
(二) 古代の皇族や皇室関係者が埋葬されている陵墓等を、国有財産法に基づいて国費を充て管理するためには、前提として陵墓等の治定の根拠にもなっている古事記や日本書紀の記述が史実か否か、古代の皇室がいつから始まっているかを明確にしなければならないのではないか。
(三) 2010年8月4日提出の質問主意書で、古代高塚式の陵墓等として管理している古墳の名称や考古学上の名称を問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七五第38号)において、考古学上の名称が「不詳」となっているものがあるが、これは当該陵墓等が考古学上の古墳には該当しないということなのか。
(四) 2010年11月18日提出の質問主意書で、古代高塚式の陵墓等として管理している古墳のうち、延喜式に祭祀の対象として記載されているものについて問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第177号)で、合計六十四の陵墓が列挙された。このうち左記の四十五の陵(括弧内は答弁書(内閣衆質一七五第38号)での表記)について、延喜式に記載された当時のものと現在の宮内庁が管理しているものとが同じであると確定的に明らかにできるものはどれか。
 神武天皇陵(四条ミサンザイ古墳)、綏靖天皇陵(四条塚山古墳)、安寧天皇陵、懿徳天皇陵、孝昭天皇陵、孝安天皇陵、孝霊天皇陵、孝元天皇陵(中山塚一号墳、二号墳及び三号墳)、開化天皇陵(念仏寺山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)、垂仁天皇陵(宝来山古墳)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)、仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)、仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(石津丘古墳)、反正天皇陵(田出井山古墳)、允恭天皇陵(市野山古墳)、安康天皇陵、雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)、清寧天皇陵(白髪山古墳)、顕宗天皇陵、仁賢天皇陵(野中ボケ山古墳)、継体天皇陵(太田茶臼山古墳)、安閑天皇陵(高屋築山古墳)、宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、欽明天皇陵(平田梅山古墳)、敏達天皇陵(太子西山古墳)、用明天皇陵(春日向山古墳)、推古天皇陵(山田高塚古墳)、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)、斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)、天智天皇陵(御廟野古墳)、天武天皇・持統天皇陵(野口王墓古墳)、文武天皇陵(栗原塚穴古墳)、聖武天皇陵(法蓮北畑古墳)、称徳天皇陵(佐紀高塚古墳)、光仁天皇陵(田原塚ノ本古墳)、平城天皇陵(市庭古墳)、仲哀天皇皇后神功皇后陵(五社神古墳)、仁徳天皇皇后磐之媛陵(ヒシアゲ古墳)、継体天皇皇后手白香皇女陵(西殿塚古墳)、安閑天皇皇后春日山田皇女陵(高屋八幡山古墳)
(五) 被葬者名が明らかにならなければ、陵墓等の治定の変更はしないことを意味すると考えられる「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」という考え方は、いつ誰が決めたものか。
(六) 我が国の古墳からは、被葬者名を特定できるものが出土した実例はないと考えられる。2010年10月1日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第1号)で明らかにされているとおり、百二十一件の古代高塚式陵墓等からも被葬者名を特定できる陵誌銘等は出土していない。陵墓等の治定の根拠には「陵誌銘等」の被葬者を特定できる確実な資料を使っていないのではないか。
(七) 多くの研究者の間では今後も古墳から被葬者名を特定できるものは、まず出土しないと考えられているが、「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」とは、陵墓等の治定を変更することはありえないということを意味しているのか。また、古墳から被葬者名を特定できるものが出土しないことが事実上前提にあるこのような見解は、撤回すべきではないか。
(八) 陵墓等の治定について「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」とは、一つでも現在の治定の変更を行うと、他の多くの陵墓等について被葬者を再検討しなければならない状況になることを危惧しているからではないのか。
(九) 陵墓参考地については、被葬者名はもちろん、被葬者が皇室関係者かどうかを確実に特定するものが出土していないにもかかわらず、「文献等から皇室関係者が埋葬されていると考えられるものについては、陵墓参考地としている」(内閣衆質一七一第611号)、「陵墓参考地の治定に当たっては、副葬品のみならず、墳丘の規模や地元の口碑伝承等についても調査の上、総合的に判断されたもの」(内閣衆質一七四第585号)という見解を示している。文献や口碑伝承だけに基づき、当該古墳に皇室関係者が埋葬されていると陵墓参考地と定める方法は絶対に確実なものなのか。また、陵墓等の治定に使った文献や口碑伝承は史実なのか。
(十) 2010年6月14日提出の質問主意書で、皇室関係者が埋葬されているとし、陵墓参考地として管理している奈良県広陵町の新木山古墳と新山古墳を実例にあげ、該当する皇室関係者とは具体的に誰かを問うたが、答弁書(内閣衆質一七四第585号)では、どちらも「被葬者については、現在考証中」という見解が示された。戦後の発掘調査によって、巨大な墳丘を持ち銅鏡や玉類、武器、装飾品等の大量の副葬品が確認された古墳は数多くあるが、陵墓参考地となったものは一例もない。これらの古墳が陵墓参考地にならなかった理由は何なのか。
(十一) 研究者の間でも、古墳から被葬者名を特定できる遺物が将来にわたっても出土する可能性はないに等しいと考えられている。「被葬者については、現在考証中」として陵墓参考地のままにしているのは、当該古墳とその出土品を皇室用財産として宮内庁の管理下に置いておくためではないのか。
 また、「考証中」とは、被葬者名を特定するための資料や情報を集めているということなのか。
(十二) 大阪府高槻市に所在する今城塚古墳は国の史跡に指定され、発掘調査の成果を基に史跡公園として整備され、歴史の学習や憩いの場として広く市民に公開され活用されている。今城塚古墳が国の史跡に指定された日、史跡に指定された具体的理由を示されたい。また、史跡の範囲は墳丘だけなのか。墳丘以外の内濠・外濠・外堤といった古墳と一体の部分も含んでいるのか明らかにされたい。
(十三) 今城塚古墳は、日本書紀に記された地名や発掘調査によって出土した埴輪等から考えて、六世紀前半から半ばの継体天皇が埋葬された古墳ではないかという学説が有力になっている。一方、宮内庁は、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を「継体天皇陵」として管理している。この理由は、十八世紀前半にここが継体天皇陵に治定されたことによると思うが、太田茶臼山古墳が継体天皇陵であるという治定は、誰が、いつ何を根拠に行ったものなのか時系列に詳らかにされたい。
(十四) 古墳が築かれた時期の前後関係を知る方法として、出土する埴輪の形態や作り方の違いを利用することが多い。太田茶臼山古墳と今城塚古墳から出土した埴輪の時期について、茨木市教育委員会と高槻市教育委員会からそれぞれ何世紀のどれ位のものと聞いており、太田茶臼山古墳と今城塚古墳は、出土する埴輪等から考えてその築造時期はどちらが古いと考えられているか。
(十五) 太田茶臼山古墳と今城塚古墳に立てられていた埴輪を製作した窯跡群(新池遺跡)が、高槻市教育委員会によって調査されている。この窯跡群も国の史跡であるが、史跡に指定された日、史跡に指定された具体的理由を示されたい。
(十六) 新池遺跡の埴輪窯跡に残る焼土の考古地磁気測定によって、太田茶臼山古墳の埴輪は450年±10年に焼かれ、今城塚古墳の埴輪は520年±40年に焼かれたという結果が出ている。これは太田茶臼山古墳の築造時期は五世紀半ば、今城塚古墳の築造時期は六世紀前半から半ばという古墳の実年代を知る有力な資料と考えられるが、太田茶臼山古墳を「継体天皇陵」とすると、継体天皇が没したといわれる五百30年前後(六世紀前半)と約80年の乖離が生じる。
 2010年10月1日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第1号)において、「今後とも考古学を始めとする学術的成果には留意していく所存」という見解を示しているが、太田茶臼山古墳から出土した埴輪の時期や太田茶臼山古墳の築造の時期が、右に示したように継体天皇の時期と合わないことについてどのような認識を持ち、どのように「留意」しているのか明らかにされたい。
(十七) 今城塚古墳の埋葬主体部は1596年に発生した大地震(伏見地震)によって激しく破壊され全容が不明であるが、残っていた巨大な石積み(石室基盤工)や石棺から「大王」級の古墳と考えてもおかしくないものである。延喜式の中で旧地名「島上郡」に所在することが記述されていること、古墳の築造時期が継体天皇の年代と合致することもあわせて今城塚古墳に継体天皇が埋葬されていると考える方が適切ではないのか。
 また、旧地名「島下郡」に所在し、継体天皇の年代とも乖離がある太田茶臼山古墳を継体天皇陵に当てている現在の治定は再検討し、見直すべきではないか。
(十八) 2010年11月18日と同年11月30日に提出の質問主意書において、奈良県明日香村に所在する牽牛子塚古墳と、牽牛子塚古墳の直下で2010年に見つかった越塚御門古墳が、七世紀半ばの斉明天皇とその孫娘に当たる大田皇女を葬った古墳ではないかという学説があることを取り上げ、斉明天皇が葬られ皇室によって祭祀が行われている「越智崗上陵」の治定の正否を検証し直すことを重ねて求めた。これに対する二つの答弁書(内閣衆質一七六第177号、同第217号)とも「斉明天皇の治定を見直さなければならないとは考えていない」というものであった。現時点においても、斉明天皇「越智崗上陵」と大田皇女「越智崗上墓」の治定の正否の検証や、その検討も考えていないのか。
(十九) 現在の斉明天皇陵と大田皇女墓を陵墓としての治定を解き、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵、越塚御門古墳を大田皇女墓にそれぞれ変更することができない記述が古事記・日本書紀・延喜式等の記述にあれば、その内容を詳らかにされたい。完全に否定する記述でなければ、治定の正否の検証を行うべきではないのか。
(二十) 2010年11月30日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第217号)において、現在の天武天皇・持統天皇陵(野口王墓古墳)は、1881年2月15日に治定替えされるまで、別の被葬者を対象にして祭祀が行われていたことが明らかにされている。この別の被葬者とは誰なのか答えられたい。
(二十一) かつて天武天皇と持統天皇とは別の被葬者を対象にして祭祀が行われていたことを、宮内庁は祭祀の主体である皇室、皇族に伝えているか。伝えていないとすれば、その理由は何か。また、先にあげた現在の継体天皇陵、現在の斉明天皇陵と大田皇女墓について、別の被葬者が埋葬されている学説があることを宮内庁は皇室、皇族に対し伝えているか。
(二十二) 来年度(2012年度)に宮内庁は、ユネスコ世界遺産登録をめざそうとしている百舌鳥古墳群中の大阪府堺市所在の土師ニサンザイ古墳(宮内庁によれば東百舌鳥陵墓参考地)を工事に伴う事前調査の対象として予定している。工事の目的と工事内容を明らかにされたい。また、この事前調査は土師ニサンザイ古墳のどの部分を、どのような方法で行う予定か。
(二十三) 土師ニサンザイ古墳は、同じ百舌鳥古墳群の大山古墳や上石津ミサンザイ古墳(石津丘古墳)に次ぐ規模を持つ巨大前方後円墳である。土師ニサンザイ古墳は1909年10月二11日、墳丘部分が陵墓参考地とされ、立ち入りや学術目的の調査が拒まれている。周濠部分は陵墓参考地の範囲ではなく、堺市の所有地となっており、堺市からは来年度に周濠部分の発掘調査を行う予定であると聞いている。同じ堺市所在の百舌鳥御廟山古墳(陵墓参考地)では、2008年に宮内庁管理部分の墳丘部は宮内庁によって、また、宮内庁管理外に当たる周濠部分は堺市によって、時期や調査区(トレンチ)の設定場所等を合わせて発掘調査が行われた。百舌鳥御廟山古墳で行ったような宮内庁と堺市による調査を、土師ニサンザイ古墳の調査においても行う予定はあるか。
(二十四) 2008年の百舌鳥御廟山古墳の調査では、宮内庁管理部分の調査区に堺市の調査担当者は入らずに作業を進めたのか。また、堺市の調査区に宮内庁の調査担当者は入らずに作業を進めたのか。
(二十五) この百舌鳥御廟山古墳の調査は「同時」調査と呼ばれているが、共同調査ではなく、同時調査と呼ぶのはなぜなのか。同じ古墳の中で宮内庁と堺市とが調査区を墳丘斜面に沿う形で同一線上に並ぶように設定し、調査中はもちろん調査後の作業においても情報を共有し意見の交換も行いながら、文字どおり共同で進めた調査ではないのか。
(二十六) 宮内庁と堺市が同時に行った百舌鳥御廟山古墳の調査結果は、宮内庁部分は書陵部紀要において、堺市部分は堺市教育委員会の発掘調査報告書においてそれぞれ公表されている。書陵部紀要には、宮内庁と堺市双方の調査区から出土した埴輪片が接合し一体の埴輪になって埴輪の形状を正確に復元することが可能となったこと等、考古学的な調査成果を高められた調査の意義の一例が報告されている。
 ところが、墳丘部と周濠部に設定された調査区(トレンチ)は、堺市部分と宮内庁部分とが場所を合わせ、調査区を同一線上に並ぶように合わせて設定したにもかかわらず、調査区配置を示した図はそれぞれの報告書でそれぞれの部分だけが、しかも異なる縮尺で掲載されている。そのため同じ古墳を双方が同時に調査したにもかかわらず、墳丘部と周濠部とが一枚の図上で一体となった状態での調査区配置状況が分からない。調査成果を公表した資料としては学術的にきわめて不十分で、いわば「使い勝手が悪い」報告書となっている。調査に当たって宮内庁と堺市が結んだ協定書においては「本調査の効率と成果を上げるために、調査区の設定に当たっては甲乙が協議するもの」とある(甲は宮内庁、乙は堺市)が、古墳の築造を考える上で設定した調査区等の全容が一目で分からない現在の公表方法では、協定書にうたわれた調査の「成果」の公表は不十分なものではないのか。
 また、前記協定書には「本調査に係る記録については、(中略)互いに使用することができるものとする。」とある。百舌鳥御廟山古墳(宮内庁によれば百舌鳥陵墓参考地)の調査結果について、学術研究上の観点からも墳丘部分(宮内庁調査分)と周濠部分(堺市調査分)に分けずに、一枚の図上で双方の調査区配置が一目で分かり、かつ連続した土層等の図を今後改めて作成し公表すべきではないか。できない理由があれば示されたい。
(二十七) 来年度予定の土師ニサンザイ古墳の調査結果は、宮内庁調査部分は書陵部紀要において、堺市調査部分は堺市教育委員会の発掘調査報告書において、それぞれその調査結果が公表されると考えられるが、右に指摘したように同じ古墳を対象とした調査であるから、各々の調査結果に加えて一枚の図上で各々の調査区設定図状況等が一目で分かるような公表の方法を考えるべきではないか。
(二十八) 百舌鳥御廟山古墳の調査の際、調査現場は一般市民にも公開された。陵墓参考地にされて立ち入ることが拒まれている巨大前方後円墳を間近に見られたという評価もある一方、公開範囲は堺市の調査部分だけで、宮内庁部分は一般見学者に公開しなかったという問題もある。このことを質した2009年7月9日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第657号)では、「陵墓や陵墓参考地の静安と尊厳を保持する観点から、これを一般公開していない」と答えている。研究者に対しては、期間と人数を少数に限定して宮内庁管理部分の調査現場を公開しているが、広く国民一般に公開すると「静安と尊厳の保持の観点」から何らかの支障があるのか。その理由とあわせて示されたい。
(二十九) 陵墓等の保全工事に伴う調査を、研究者や学会を対象にした限定的に公開する時以外に、墳丘等の掘削を伴わなくとも研究者が学術目的で自由に陵墓等に入り規模や築造の方法等を調査することが、なぜ被葬者の「静安と尊厳の保持」を損なうことになるのか。その理由を分かりやすく答えられたい。
(三十) 日本の研究者が、エジプトや韓国等の「王墓」の発掘調査に参加することを政府は認めながら、日本の古代の「大王」やそれに近い墳墓と考えられる陵墓等の調査を認めないのはなぜか。
(三十一) 宮内庁は、陵墓等に治定している古墳の調査を行う場合、「我が国にとって歴史上または学術上価値が高いと評価されるものは文化財保護法上の文化財に相当する」という理由から、文化財保護法等の規定に従った諸手続きを行っているという。陵墓等として管理されている古墳も文化財である以上、この手続きは当然である。文化財保護法にもあるとおり、文化財は「貴重な国民的財産」である。それは国民に公開すべきものであり、公開することでその価値は高まるものと考えられる。土師ニサンザイ古墳も文化財の一つであり、来年度予定の調査で調査現場を公開する際には、宮内庁の調査部分も一般市民に公開すべきと考えるが、これまで同様に被葬者の「静安と尊厳の保持」を理由にして公開しないつもりなのか。文化財としての価値を考慮して公開を行うべきではないか。
(三十二) 奈良市所在の佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)や宝来山古墳(垂仁天皇陵)は、かつて盗掘を受けたことが知られている。2010年6月14日提出の質問主意書で、かつて盗掘が行われ、副葬品が持ち出されたことが明らかな陵墓等であれば、学術的観点から調査を行っても差し支えないのではないかと問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七四第585号)では、「御指摘のような事情を踏まえたとしても」と前置きして、それを認めなかった。前記の古墳以外に、古文書や行政記録文書の記述、あるいは管理の際に、埋葬主体部の盗掘、破壊、開口等を確認している古代高塚式陵墓と呼ぶ古墳はないのか。該当する陵墓等の名称・考古学上の名称・所在地・盗掘等の年を示されたい。
(三十三) 先にあげた土師ニサンザイ古墳は、現在地表から目視することができる周濠の外側に外濠と外堤(以下、外濠等と略)を持つことが調査によって判明している。外濠等に当たる部分は、かなりの範囲が区画整理事業等により市街化が進んでいるが、外濠等の保存・保護の状況はどうなっているか。2010年6月14日提出の質問主意書で、地表から見えない古墳の周濠の保存・保護について質した。これに対する答弁書(内閣衆質一七四第585号)では、「文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置が採られるものと考えている」となっているが、実際に土師ニサンザイ古墳の外濠等の部分は「文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置」が採られているかどうか、その認識と理由とを示されたい。
 また、土師ニサンザイ古墳の外濠等の範囲は明確につかまれているのか、文化財保護の観点から範囲を明確につかみ、史跡に指定して保護すべき必要があるのではないか。あるいはその価値はないという認識か。理由とともに示されたい。
(三十四) 土師ニサンザイ古墳の外濠等の範囲と想定される部分を含む既往の発掘調査件数は、宮内庁管理部分とそれ以外の部分でそれぞれ合計何件にのぼるか。また、宮内庁管理部分外での遺構の検出件数、そのうち現状保存されている件数は何件か示されたい。また、調査による記録を残すことなく破壊された箇所はないか、あわせて明らかにされたい。
(三十五) 土師ニサンザイ古墳に限らず百舌鳥古墳群の中には、宅地造成や土砂採取によって破壊され消滅した古墳が少なくない。文化財保護法が施行されて以降、百舌鳥古墳群において明らかに破壊されたことがわかっている古墳は何基あると把握、または聞き及んでいるか。また、宅地造成等による古墳の破壊・消滅は「文化財保護の観点から適切な措置」が採られた結果なのか。
(三十六) 2009年6月二19日と同年7月9日提出の質問主意書で、大阪府羽曳野市に所在する誉田御廟山古墳(宮内庁は応神天皇陵として管理)の外濠と外濠の一部が「応神天皇陵古墳外濠外堤」という名称で国の史跡に指定されていることを取り上げた。この古墳の被葬者は学術的に不明であり、応神天皇が葬られていることが明確にならない限り、史跡の名称は学術的成果を踏まえ「誉田御廟山古墳外濠外堤」へと変更するよう重ねて求めた。これに対する答弁書(内閣衆質一七一第611号、内閣衆質一七一第657号)では「地域で親しまれている名称など、当該史跡を最も適切に指すものを名称としており、文化庁としては、御指摘の史跡の名称を変更する必要はない」と同じ見解を示した。
 2010年6月3日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七四第535号)では、「御指摘の「誉田御廟山古墳」の被葬者については、学術的には確定していないものと承知」とある。被葬者が「学術的には確定していない」古墳を「応神天皇陵古墳」という名称のままで史跡に指定しておくのは、あたかも応神天皇が葬られている古墳であることが確定しているかのような誤解を与えかねない。あくまでも「当該史跡を最も適切に指すもの」は「誉田御廟山古墳」であり、史跡の名称を「応神天皇陵古墳外濠外堤」から「誉田御廟山古墳外濠外堤」へと変更すべきではないか。改めて求める。
 また、「応神天皇陵古墳外濠外堤」のままでは、国自身が歴史そのもの、あるいは歴史の解釈をゆがめることにつながるのではないか。そのような懸念は一切ないという考えか、明らかにされたい。
(三十七) 2009年7月9日提出の質問主意書で、奈良県桜井市所在の箸墓古墳の測量図に示されている後円部の等高線とほぼ直角に交わる破線と、墳丘くびれ部を斜めに横切る破線とがそれぞれ何を表現したものかを質したが、これに対する答弁書(内閣衆質一七一第657号)では「測量図作成当時、具体的にどのような形態であったかについては、承知していない」と示された。指摘した箇所は現在どのような形態、状況を呈しているのか明らかにされたい。
 また、2009年6月二19日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第611号)で「宮内庁の陵墓調査官は、陵墓の管理上、必要に応じて墳頂部へも立ち入ることがある」と示されているが、箸墓古墳の墳頂部に立ち入る際には、上述した等高線とほぼ直角に交わる破線を通路として使っているのか。
(三十八) 2009年7月9日提出の質問主意書で、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地)から出土し、現在宮内庁が保管している約十三リットル(2009年6月二19日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第611号)による)の水銀朱について、放射線分析や質量分析等の科学分析を含めた調査を行い、一般に公開することを求めた。これに対する答弁書(内閣衆質一七一第657号)で、「分析実績のある機関から申請があり、学術上の観点から必要不可欠であると認められれば、実施方法などを考慮し、検討することもあり得る」と示されたが、研究者個人による申請は認めないのか。また、これまでに分析の申請はあったか。あれば申請者名を示されたい。
(三十九) この水銀朱は宮内省諸陵寮(当時)が大阪府から送付を受けた時の新聞紙に包まれ、宮内庁書陵部収蔵庫内で木箱に収められたままになっている。陵墓参考地の出土物として宮内庁が管理している資料について、宮内庁が科学分析を行わないのはなぜか、理由とともに示されたい。また、産地を明らかにして当時の交流や交易の手がかりとする目的等で分析実績のある機関や研究者に対し、調査の依頼や照会を行い、学術研究において活用させるべきではないか。その資料的価値はないという考えか。
(四十) 宮内庁が管理するこの津堂城山古墳出土の水銀朱について、博物館等から展示や研究のための借用の申請や申し出があれば、貸し出しを行うか。
(四十一) 2010年8月4日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七五第38号)において、古墳が陵墓等に治定された年や時期が明らかにされたが、現在の陵墓等の範囲が確定したのはいつか。治定と同時なのか。古代高塚式陵墓等として管理している古墳それぞれについて明らかにされたい。
(四十二) 2010年6月3日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七四第535号)において、1873年11月2日の太政官達以降、「みだりに域内に立ち入らぬこと」等を書いた制札といわれる看板が掲示されるようになったことが明らかにされた。それまでは陵墓等には自由に立ち入ることができたと思うが、当時の政府が制札を立て立ち入りを禁じるようになったのは何のためか。また、太政官達により制札を掲示することが命じられるまでは、陵墓等の静安と尊厳は保持されていなかったのか。
(四十三) 古代高塚式陵墓等として管理されている古墳の多くでその周囲に「外構柵」が設置され、物理的に陵墓等への立ち入りが困難な状況になっている。外構柵は水を湛えた周濠を持つものは転落防止の効果もあると考えられるが、周濠のないものも含めて国民に対して陵墓等はあたかも「神聖で侵入してはならない」という視覚的効果を与えている。外構柵を設置するようになったのはいつからで、その目的は何か。また、最初に外構柵を設けた古代高塚式の陵墓等は何か。考古学上の名称とあわせて示されたい。
(四十四) 2010年10月1日提出の質問主意書、同年11月18日提出の質問主意書、同年11月30日提出の質問主意書で、陵墓等に設けられている鳥居の設置目的と設置起源について質した。答弁書(内閣衆質一七六第1号、内閣衆質一七六第177号、内閣衆質一七六第217号)で、「埋葬区域と拝礼場所との境界、拝礼場所と参道との境界等」を示すために設置され、「最初に鳥居が設置された正確な時期は不明」、「皇室においては、伝統的に陵墓等に鳥居を設置しているものと承知」と示された。「伝統的」である根拠を明示されたい。また、「伝統的に」とは、具体的にいつから始まったものなのか。古代、中世、近世のいつから始まり今に至っているのか。幕末あるいは元号が明治となった以降からではないのか。
(四十五) 2010年11月30日提出の質問主意書で、宮内庁書陵部発行の「陵墓要覧」によると2016年4月3日に神武天皇没後二千六百年の「式年祭」が執行されることをあげ、2016年が神武天皇没後二千六百年の年に当たると理解しているかどうか質した。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第217号)で、「宮内庁としては、「日本書紀」の記述に基づけば、二千16年は、神武天皇が崩御してから二千六百年に当たることになると承知」とある。2016年から二千六百年前とは紀元前六世紀であるが、神武天皇が没したのは日本の縄文時代という理解でよいか。また、歴史学において神武天皇は実在しなかった架空の人物とされているが、神武天皇は実在した人物という認識か否か。
(四十六) 同じ質問主意書で、神武天皇が没したという日本書紀の記述「日本書紀の神武天皇76年」の西暦年と時代名、また、神武天皇の即位時の年齢とその西暦年、時代名を問うた。答弁書では五十二歳で即位したことが示された。日本書紀によれば神武天皇は2月11日に即位したといわれるが、その年は日本書紀によれば何年で、それは西暦何年に相当するのか。
 右質問する。

皇室典範改正に関する質問主意書

平成24年2月8日提出
質問第55号

皇室典範改正に関する質問主意書

提出者  中島政希

皇室典範改正に関する質問主意書

 将来にわたり皇位継承を安定的に維持することは、わが国の国民が等しく担うべき責務であり、いつの時代においても国政上の最重要の課題である。しかしながら、皇族方の減少にともない、安定的な皇位の継承が難しい事態が近い将来現出するであろうことが懸念されている。悠仁親王殿下ご誕生により一時の余裕が生じている今こそ、男系男子による皇位の安定継承への対応に万全を期すべきであると考える。
 現在、皇統を安定化させる方途として、旧皇族の皇籍復帰、養子制度の導入、女性宮家の創設などが議論されているが、これらの改革には皇室典範の改正が不可欠である。右をふまえ質問する。

一 男系男子による皇位継承を維持するために、旧皇族の男子を現在の宮家の養子としてはどうかという考え方がある。皇室典範第9条には「天皇及び皇族は、養子をすることができない」とあるが、この条項の改正について政府の考えは如何か。
二 野田総理大臣は本年1月17日の内閣記者会による女性宮家創設についての質問に対し「一定のスピード感を持って、早く結論を出す緊急性のあるテーマだ。決めていく方向でいきたい」等と発言している。皇室典範第9条よりも、女性宮家創設(同法第5条、第12条などの改正)を優先して検討を進める理由は何か。
三 昨年11月二12日、秋篠宮殿下はお誕生日の会見にあたり、「今後の皇室の在り方を考えるときには、何らか、私若しくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあって良いと思っております」とご発言されている。今後検討を進めるであろう皇室典範の改正過程で、政府として天皇陛下や皇族方からご意見を拝聴する考えはあるか。
 右質問する。